手打ち刃物など(金工品)/Blades, etc.(Metalwork)
かつて各地の農村には生活必需品の鍬・鎌・包丁などを作る鍛冶屋がおり、刀鍛冶と区別して野鍛冶と呼んでいました。熊本市川尻は、室町末期からの鍛冶屋町で、江戸時代には肥後藩の造船所が設けられて、鍛冶が盛んになりました。特に包丁を主力とする川尻刃物は有名です。人吉市鍛冶屋町は約800年前の鎌倉時代に作られたといわれています。60軒程の鍛冶屋が、平時は農作業の刃物を作り、戦いが始まると武具を作っていました。昭和初期まで多くの移動型鍛冶屋が集まっており、球磨地方から宮崎県にかけての農村を廻って農具や山仕事用の鉈や斧を作ったり修理したりしていました。その他、宇土市、美里町、八代市などでも手打ち刃物が作られています。鋸(のこ)は、現在鍛造による製造が少なくなるなか、人吉市で昔ながらの製造法を用いて作られています。主材料は安来鋼で、鋸の切れ味を増す工夫がなされています。
Metalwork in Kumamoto includes the following crafts: Higo-zogan, which originated from sword accessories; Kawashiri and Hitoyoshi-Kuma cutting tools, such as kitchen knives, farm hoes and sickles; and swords, the production of which dates back 750 years ago to the Kamakura Period.
熊本県の手打ち刃物・その他金工品について
川尻刃物
川尻刃物
約500年前の室町時代(応仁年間)薩摩の「波平行安(なみのひらゆきやす)」の流れをくむ刀鍛冶が起源と言われています。その後江戸時代に入り細川家で五ヶ町の制をしき、この川尻町の商人は、他町の商人と区別され厚い保護を受け、川尻は、肥後の有数の開港場として、造船所とともに川尻刃物や木工関係、その他(寺の鐘以外)なら何でも作っていたと言われています。川尻刃物は「割込み鍛造(わりこみたんぞう)」という方法で作られています。 地金(極軟鉄(ごくなんてつ))に良質の鋼(はがね)を挟み込んで、手打で鍛え上げるもので、切れ味、耐久性に優れ、重厚な美を備えています。 戦前には、50軒ほどの鍛冶屋がありましたが、現在は2軒(平成25年現在)が生産を行っています。 また、川尻刃物の流れをくむ手打刃物が宇土市にあります。 現在、包丁などの刃物を中心に、鍬・鎌等の農作業用具、漁具など多様な製品を作っています。材料:刃金…刃物用炭素鋼 地金…刃物用軟鉄
人吉球磨刃物
人吉球磨刃物
人吉球磨刃物は、鎌倉幕府の地頭として遠州(静岡県)より赴任して来た相良氏が、九州と当地の技法をあわせた独特の鍛冶技術を編み出させたのが始まりといわれています。人吉城主相良侯をはじめとして、球磨地方には数ヶ所の城跡があり、その関連で数多くの刀工がいたものと思われ、その人たちのよって刃物の製造法が伝えられたのではないかといわれています。人吉・球磨刃物の中では特に球磨鎌で知られる造林鎌が有名で、この地方は山林業が盛んであり、斧、鉈、造林鎌などは主要生産品です。 これら山林用の道具は、改良に改良を加えて、使い良いことは他の追従を許さないものがあります。 現在、山林用道具の需要が少なくなり、包丁等の刃物を中心に、レジャー用のナイフなども作られています。
製作開始年代:江戸以前材料:刃金…刃物用炭素鋼 地金…刃物用軟鉄
鋸
日本刀
松永源六郎 作 日本刀
肥後鐔
刀剣と同じ玉鋼(たまはがね)を鍛錬(たんれん)し、鉄の色、姿かたちの美しさ、それに象がん(ぞうがん)や透かし彫りが施されます。品格があり、拵(こしらえ)に調和し、なによりも実用性を重視した工芸品です。寛永9年(1632細川忠利は肥後に転封し、父の忠興(三斎)は、時の名匠を召抱え刀剣金具の技倆の奨励をはかりました。工人としては、林又七、平田彦三、志水仁兵衛、西垣勘四郎らがおり、別派に、三角倖司、遠山頼家がいます。
製作開始年代:江戸前期材料:玉鋼、和鉄
※現在は制作されていません。
馬蹄鉄
馬蹄鉄(ばていてつ)は、軟鉄を弓型に打ち、溝と釘孔を打って仕上ます。 現在は、実用より飾り工芸品としての利用が多くなっています。先代の沼田熊雄(ぬまたくまお)氏が軍隊で装蹄の技術を身につけました。昭和7年に現在地に開業した当時は、荷馬・軍馬に需要が多く、昭和16年3月、東京で開催された第1回全国装蹄師競技大会でグランプリを受賞しました。
製作開始年代:昭和(戦前)材料:軟鉄
※現在は制作されていません。
手打ち刃物
熊本県内の手打ち刃物
熊本県内では、宇土市、美里町、八代市などでも手打ち刃物が作られています。
天草鍛冶
天草鍛冶は、元寇の役に戦功を立てた天草郷土の功績で、信州諏訪大社の御分霊を本渡に迎え奉斉しました。その時の随身に倭鍛冶がいて技法を伝えたという説と、その頃、高麗の船が漂着し、その中に鍛冶の心得のある者がいて天草鍛冶を起こしたという説があります。古代日本の農具の鍬は風呂鍬と呼ばれ、京鍬、尾州鍬、江戸鍬に天草鍬が数えられ4代表になっていることは、古代天草の文化がしのばれます。天草の乱後、初代代官になった鈴木重成公は、諏訪神社の大祭を7日間として農具市を開設しました。この奨励により農具鍛冶が振興、農具市は、後年九州三大市のひとつと言われる本渡の市へと発展しました。戦前は、天草島内にも20数件の鍛冶がありました。
製作開始年代:江戸以前材料:刃金…刃物用炭素鋼 地金…刃物用軟鉄
その他の金工品
錫(すず)
錫 徳利
スペイン象眼
About Metalwork of Kumamoto
Kawashiri Cutting Tools
Kawashiri Cutting Tools
The production of Kawashiri cutting tools dates back to about 550 years ago in the Muromachi Period. During the Edo Period, Kawashiri in Kumamoto was home to many blacksmiths, and a number of shipbuilding yards belonging to the Higo Domain (present-day Kumamoto Prefecture) were built.Kawashiri is famous for its knives, called “Kawashiri hocho.” Kawashiri knives are made by putting a piece of steel between two layers of soft iron and striking it repeatedly with a hammer. As long as steel remains, the knife can be repeatedly sharpened in this way.
Hitoyoshi-Kuma Cutting Tools
Hitoyoshi-Kuma Cutting Tools
Hitoyoshi-Kuma cutting tools are made in the Hitoyoshi and Kuma regions of southern Kumamoto. The production of these blades dates back 800 years ago to the Kamakura Period. As many as 60 blacksmith forges gathered in one part of Hitoyoshi to make a blacksmith town. The smiths made farming tools during times of peace, and weapons during times of war.The area now boasts a strong lumber industry, and so in addition to knives, other tools are produced such as axes, hatchets, sickles and saws.
saw
saw
Japanese Swordsmithing
Japanese Sword
工芸家紹介(刃物等・金工品)/Craftsmen(Metalwork)
【川尻刃物】
- 林 昭三
- 林 精一
【人吉球磨刃物】
- 川村 勝行
- 蓑毛 裕(雅号:友光)
- 蓑毛 稔
- 蓑田 正次
- 西山 勝
- 樺山 五昭
- 樺山 明
- 木村 忠義
- 栗須 敦志
- [上米良鍛冶工場]上米良 秀人
【人吉球磨刃物・鋸】
- [岡秀]岡 正文
【手打刃物】
- 小山 博行
- 小山 昭博
- 盛 径博
- 小山 春喜
- 隈部 寛
- 盛高 經猛
- [宮尾刃物鍛錬所]宮尾 伸二
- 福嶋 賢二
【刀剣】
- 松永 源六郎
【他】
- 高光 俊信
- 高光 太郎
- 伊藤 恵美子
【肥後鐔】
- 盛高 琢象
【馬蹄鉄】
- 沼田 孝一